『赤旗の歌』やメーデーかが労働運動を母体にして生まれたのに対し、この歌は大正の初期に起こった文芸運動の中から歌いだされてきました。
母体になった文芸誌「種蒔く人」の運動が目指したものは、世界革命の擁護であり、プロレタリア国際主義の啓蒙・普及でした。その活動は単に宣伝啓蒙にとどまらず、日本のシベリア出兵に反対する対露非干渉同盟や、過激思想取締法案反対運動を積極的に支持。日本で国際婦人デーと10月革命記念日の大衆的な行事を初めて行うなど、実践的な行動を展開しました。
原詩は1871年、フランスの労働者詩人ウジェーヌ・ポチエが書いたもの。ポチエはパリ・コンミューンに参加して闘い、パリ第2区から議員に選出されましたが、コンミューン壊滅後、弾圧を逃れてイギリスへ渡り、亡命の地でこの詩を書きました。
1888年、フランス労働党リール支部の勤労者音楽隊の依頼でピエール・ドジェイテールが作曲。リールからノール県へと広がっていきました。そして1895年、トロワで開かれたゲート派の組合大会、1899年パリのジャピー館で開かれた大会後、この歌はフランスのすべての社会主義者に採用され、やがて世界的な歌になっていきました。
1902年、ロシア語に翻訳され、ロシア革命の歌となり、10月革命後、世界最初の社会主義国家の国歌に制定されました(今は違います)。
日本では1922年がちょうどロシア革命5周年にあたることから、この年の11月、革命記念日を祝って行われた振興文学主催の「振興芸術講演会」で、「日本版インター」を歌おうという計画から生まれたものです。
ウジェーヌ・ポティエ 作詞/ピエール・ドジェテール 作曲/佐々木孝丸・佐野碩日本語詞
♪起て飢えたる者よ…。1871年、世界初の労働者政府だったが、外国軍の介入もあって弾圧されたパリ・コミューン。それに参加した木材労働者ポティエが亡命地イギリスで書いたものに、1888年、同じフランスの木材旋盤工ドジェテールが作曲した。ドジェテールは日頃から労苦を共にする仲間たちの生活や希望を反映するシャンソンを作り、声を合せていた。
日本では1903年、小塚空谷の訳で「労働世界」に紹介されたのが初。普及するのはプロレタリア文芸運動の佐々木孝丸らによる邦訳が出来てから(22年)で、さらに日本語詞が改作されて今に至る。戦前この歌は禁止され、ラララとも歌えずついにはジェスチャーで“うたい継がれ”た。
※うたごえ新聞歌の小箱No.190(2010年4月12日号)より





















